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第九回きごさい俳句大会表彰式の中止について

季語と歳時記 投稿日:2020年2月25日 作成者: dvx223272020年2月25日

 新型コロナウイルスの感染が広がっております。大変残念ですが、3月15日(日)に予定しておりました第九回全国小中学生俳句大会の表彰式を中止することにしました。
 賞状や大会冊子などにつきましては、後ほど(3月10日以降)各学校に郵送させていただきます。

きごさい俳句大会実行委員長 小山正見
きごさい代表 長谷川櫂

お問合せ先 info@kigosai.sub.jp

恋の俳句大賞(2019年後期)該当作なし

季語と歳時記 投稿日:2020年2月12日 作成者: dvx223272020年2月14日

恋の俳句大賞、前回同様、今回も該当作がありませんでした。

【選評】
・趙栄順

 「恋の俳句大賞」も回を重ねる毎に句数も増え,盛況を喜んで居ります。しかし,ネット句会の性質上,安易な投句も目立つのは気になるところです。今回も,「大賞者該当なし」という結果になり残念です。全体の印象を言えば,観念的な句が多く,いわゆる「為にする句」,作り物の感じが否めません。

  在りし日の恋や八月十五日  鹿沼 湖

 悲しい恋の記憶とともに時間の経過が見える句と思いましたが,類想句も多いのではないかと思わせられます。
   
  恋をして薔薇の迷路に迷ひをり  川辺酸模

 恋の最中の心の揺れが,「薔薇の迷路」という措辞で表現され,実感のある句と思いましたが,少々観念的ですね。

・長谷川櫂

 恋の俳句大賞は選者2人のどちらかが特選にしている句の中から大賞を選ぶ。特選3句の中で大賞の可能性を感じたのは、

  ひと夏の恋にピリオド平手打ち  浦本優也

 たしかに事態としてはおもしろいのだが、かつての大賞句のように広がらない。

  かきまはす君と私の扇風機    長井亜紀

 この句は「の」が問題。この一字で句が混乱する。

  着ぶくれて彼とおんなじやうな顔 城内幸江

 この句は類想あまたあり。
 
  サヨナラの君が見えない花の雨  小島寿々

 両者が入選に選んでいるが、迫力に欠ける。
 次回に期待する。

・趙栄順選
【特選】
在りし日の恋や八月十五日    鹿沼 湖
恋をして薔薇の迷路に迷ひをり  川辺酸模
冴ゆる星みとるる君にみとれをり 永井 美樹
水仙やゆつくり甘くなる時間   城内幸江
満月につながれてゐるふたりなり 佐々木健一
【入選】
彼の人と同じ香水交差点     粕谷 経
春近し恋の予感やポップコーン  水夢
サヨナラの君が見えない花の雨  小島寿々
幾千の恋の欠片の海月かな    川辺酸模
愛醒めし人を落椿のごとく打つ  石英子
ちちろ鳴く君に片耳あづけをり  佐々木健一
恋をして酸素欠乏ゆらゆら金魚  澤田 紫
酔芙蓉あれは優しき嘘と知り   小鞠
遠距離を埋めるふたりの日記かな 青い月
秋扇たゆたふ恋をしまひけり   佐々木健一
冬銀河だけに見られたプロポーズ 茂る

・長谷川櫂選
【特選】
ひと夏の恋にピリオド平手打ち  浦本優也
かきまはす君と私の扇風機    長井亜紀
着ぶくれて彼とおんなじやうな顔 城内幸江
【入選】
春近し恋の予感やポップコーン  水夢
サヨナラの君が見えない花の雨  小島寿々
湯ざめしてあああこの恋煩はし  武田百合
冬立つやからだに残るピアノの音 佐々木健一
老いらくの恋は結構金かかり   米林真

きごさい+「ほっぺたにキス」

季語と歳時記 投稿日:2020年2月12日 作成者: dvx223272020年2月12日

2月1日(土) 第20回「きごさい+」が神奈川近代文学館で開催されました。
講師は東海大学教育学部国際学科の小貫大輔(おぬきだいすけ)教授。日本とブラジルの国民性や文化の違いなど、具体的でユーモアたっぷりのお話に魅了されました。

    キッスとハグと         小貫大輔(おぬきだいすけ)

初めて句会なるものに参加させていただいて、とても楽しかったです。素晴らしい句がたくさんあって、選にも困りました。そして、私の句は一つも選ばれなかったことにも、感動。皆さん、(当然ですが)見る目をもっておられるなあ、と。

句会が終わってからスタッフの皆さんとお茶をいただいているとき、「今日はキッスの練習をするのかと思ってきちんと髭を剃ってきたんですよ」と言われました。

そうなんです。

いつもならドイツの握手とブラジルのキッスを会場の皆さんに体験していただいて、それをしているときの自分を、日本式のお辞儀をしているときの自分と比較していただくのですが、今回は時間がなくてできませんでした。(私が風邪気味で、しかも新型コロナウィルス関連のニュースが蔓延している中、申し訳なくて遠慮したところもあります。)

キッスの挨拶とは言っても、ほっぺたを寄せてチュッと音を出すだけの儀礼的な「まねごと」に過ぎませんが、これが意外と感情を高ぶらせるものです。

私の普段の授業で大学生にやってもらうのですが、彼らにはなかなかできません。「えーっ」と叫んで、動揺してしまう人もいます。無理やり挑戦しても、全身ガチゴチで耳と耳がボカンと音を立ててぶつかることもあります。私のお話の中でも話したのですが、20歳は人生で一番「日本人そのもの」なときなのかもしれません。「地球人」として生まれてきた赤ちゃんが、20年かけてこの国の言語と価値観、マナーとを学んできた成果なんだと思います。だからこそ、これから旅立つ人生に向けて「脱構築」してあげようと思ってこういう授業をするわけです。

しかしおもしろいことに、ドイツの握手とブラジルのキッスでは「キッスの方がいい」という学生が大半です。ドイツの握手は、手を握り合うばかりでなく、目と目の激しいコンタクトを要求します。自分が自分であること、相手が相手であること、天から始まって地球の真ん中まで通る太い線が2本、それこそガチンと出会います。日本人にもアイコンタクトが当たり前の時代がやってきたとはいえ、やはり緊張を呼ぶ挨拶です。

その点、日本の挨拶はいかがでしょう。ブラジル人のように肉体で相手の懐の中に飛び込むわけではありませんが、全身で交わすホーリスティックな挨拶であることに変わりがないのでは。目、とか、手のひら、とか、自分の身体の一点の、特に感受能力の高いところから「自分」を引きはらって、奥の奥まで引きさがった上で、頭長の大泉門のようなところから外界に出ていくような挨拶ではありませんか。体の外で他者と出会い、空気となって抱擁しあうような。

私は、この不思議な感覚が日本人の特徴だと思っています。

ものごとをはっきり言葉にするのではなく、心で感じる力。人の気持ちを思いやり、慮り、気遣い、按じ…(ついでに言うと忖度も)。これはなかなか海外では体験できないものです。超能力そのもの。

その能力を、私たちは毎日毎日、一日に何回も、お辞儀という形で練習していると思うのです。ちょうどドイツの人たちが、自分をしっかりと持ち、相手を敬い尊ぶ態度を、毎日握手を通じて練習しているように。ブラジルの人たちが、ブラジルで最も大切にされる能力をハグとキッスで練習しているように。ちなみに、ブラジルでは「シンパチコ」というのが、人間への最大級の褒め言葉です。説明するなら、「開いた心の持ち主」、「他者と感応しあうことのできる人」ぐらいの意味かな。

文化とは不思議なものです。それは私であって、私でない。こんなにも自分にとって大切であたり前なことなのに、自分の中から生まれたものではない。だって、他の文化に生まれていたら、自分はきっとその文化の言うとおりに育っていただろうから。それなのに、こんなにも自分の一部になっているのは、それが脳の中のどこか一か所に宿るのではないからだと思うのです。文化は、所作となって、流れとなって、回路となって、私たちの存在を導きます。

では、私たちは文化の所産でしかないのでしょうか。お辞儀で育ったら、キッスはできるようにならないものでしょうか。

もちろん、そんなはずはありません。

「文化的アイデンティティ」とはよく言いますが、私は「アイデンティティ」は文化より深いところにあると感じています。あるいは、文化的アイデンティティのさらに奥深いところに自分の「核」があると。私の場合は、その「核」が、初めて「キッス」と出会ったときに震えました。24歳のときのことです。そのバイブレーションが自分を海外へといざない、やがてブラジルへと導いてきました。20年ほどの海外生活の末に、運命のいたずら(必然)で日本に戻ったときに、自分のミッションは日本の社会にキッスを伝えることだと確信しました。

私のミッションはうまくいっているのでしょうか。さあ、どうでしょう。少なくとも、学生たちはどんどん変わっていきます。10数年前、私のキッスの授業は「1勝1敗1引き分けならよし」と思っていました。今は、ほとんどの学生がそれなりにチャレンジしてくれます。私の授業が上手になったから、ではない。明らかに若者の魂が変わってきています。文化は流れるものであるから、意外と急速に変化していくのかもしれないと思っています。

講座のあと、句会が開かれました。
・小貫大輔選
【特選】
春の日がふくらんでゆくほつぺかな   三玉一郎
ひややかな鼻ふれてくる子馬かな    長谷川櫂
風光る丘の上なる遠会釈        趙栄順
【入選】
春立つやチャドルの母の頬にキス    鈴木伊豆山
春近し懐に入る地球人         吉安友子
ダイスケはダイスキに似て梅真白    飛岡光枝
カステラのざらめを噛めば梅ひらく   片山ひろし
春空に鋏を入れて薔薇整枝       神谷宣行

・長谷川櫂選
【特選】
どの国の子どもも笑へ山笑ふ      趙栄順
抱かれていのちの育つ日永かな     趙栄順
おんぶ好き抱つこ大好き日脚伸ぶ    葛西美津子
春風やいろんな声のこんにちは     葛西美津子
蜜蜂のキッス上手や花めぐり      飛岡光枝
【入選】
人間の氷とけゆくキッスかな      飛岡光枝
人類の春いろいろやペンキ塗る     飛岡光枝
夕日にキスを凍て星におやすみを    石川桃瑪
くれなゐの薔薇の芽吹きやこんにちは  石川桃瑪
タンカーの船足重し春の海       上田雅子
目の中にあなたを探す春の月      三玉一郎
寒椿外人墓地にある日向        吉安友子
ラガー等のトライ決めたりハグ弾む   鈴木伊豆山
キスをせん春色をしたほつぺたに    井上じろ
手袋を脱ぎて握手の長かりし      中丸佳音
初蝶や地球のほつぺにキッスせん    神谷宣行

恋の俳句大賞締め切りました

季語と歳時記 投稿日:2020年2月1日 作成者: dvx223272020年2月1日

たくさんの応募ありがとうございました。応募総数は524句でした。
入賞発表までしばらくお待ちください。
今日から2020年前期分を募集いたします。

2月1日「きごさい+」は小貫教授の「ほっぺたに キス?!」

季語と歳時記 投稿日:2019年12月31日 作成者: dvx223272020年1月22日

2月1日(土)のきごさい+は、ほっぺたに キス?!


第20回 きごさい+は、2020年2月1日(土)
いつもの神奈川近代文学館で開きます。
講師は東海大学国際学科教授 小貫大輔先生。
二十代に旅先のブラジルで出会ったボランティア活動を
きっかけに、国際協力を生涯の仕事とするようになった
という小貫先生。その行動力と情熱の元は? 
きっと、ユニークで楽しいお話がお聞きできるでしょう。

演 題 : ほっぺたに キス。ブラジル オキシトシン
講 師 :  小貫 大輔 (おぬき だいすけ) 
  
プロフィール : 東海大学国際学科教授。東京大学教育学研究科(健康教育)博士課程修了。ハワイ留学をへて、1988年にブラジルにわたる。サンパウロのスラムで、5年間にわたってエイズ予防活動に従事。その後、日本政府から専門家として7年間ブラジルに派遣され、助産師という職種を作るプロジェクトに参加。2006年に帰国して現職。

講師のひと言 : 「こんにちは」の挨拶はどこの文化にも存在する儀礼ですが、それをどんなジャスチャーをつけておこなうかというと千差万別です。私はブラジルに長く住んだので、「ほっぺたのキス」に慣れ親しみました。日本の大学で異文化理解の一環としてこれを教えようとすると、いつも教室中が湧きかえるほどの大騒ぎです。挨拶のジェスチャーは、それぞれの文化が最も大切にしている価値観をよく表しています。それがどんな方向を向いているのか、一緒に考えてみましょう。オキシトシンという現代のキ-ワードもご紹介します。

日 時: 2020年2月1日(土)13:30〜16:30 (13:10 開場)
13:30~14:30 講座 
14:50 投句締切(当季雑詠5句)
14:50~16:30  句会

会 場: 神奈川近代文学館 中会議室  (横浜市、港の見える丘公園)
〒231-0862 横浜市中区山手町110
みなとみらい線「元町・中華街駅」6番出口から徒歩10分
http://www.kanabun.or.jp/guidance/access/
    
句 会:  当季雑詠5句(選者=小貫大輔、長谷川櫂)   句会の参加は自由です。 
参加費:  きごさい正会員1,000円、非会員2,000円
参加申込み: きごさいホームページ 申し込み欄 から。
またはきごさい事務局に FAX 0256-64-8333 

髙柳克弘さんの HAIKU+

季語と歳時記 投稿日:2019年12月11日 作成者: dvx223272019年12月11日

「今何が俳句で問題か」という統一テーマで、現在ご活躍中の俳人をお迎えして俳句の未来を考える「HAIKU+」。その第3回が12月1日神奈川近代文学館で開催されました。講師は俳人の髙柳克弘さん。人気、実力とも若手トップランナーのおひとり髙柳さんのお話に、参加者一同、惹きこまれました。以下、髙柳さんの講演録を紹介します。

〝軽み〟ならぬ〝重み〟の時代へ 髙柳克弘

はじめに
芭蕉が晩年に辿りついたという〝軽み〟。現代俳人にも少なからぬ影響を与える〝軽み〟ですが、口当たりの良い言葉がもてはやされる現代には〝重み〟こそが意味を持つのではないでしょうか。〝重み〟は主題を持つことで生じると私は考えます。俳句において季語は必ず主題であるべきなのか。俳句で思想や観念を書くことはできないのか。俳句ならではの主題の表現法とは何であるのか。みなさんと一緒に考えてみたいです。

私は一九八〇年に生まれ、いわゆるロストジェネレーション世代です。バブル崩壊後、将来不安が蔓延して、企業が新人採用を控えたので、就職氷河期になりました。そんな中、就職活動はしないで、俳句の研究や実作で生計を立てようとしたんです。とても不安なとき、芭蕉の「薦を着て誰人います花の春」という句が、すごく救いになっていたんですね。そんな思い出があるものですから、私の原点には、俳句は生を支えてくれるものといいますか、人生とは何か、生きるとは何かという主題をしっかりと持った、重みのある言葉だという認識があるんです。
私が今日お話しようと思っているのは、まずは①俳句には主題の重みがほしい、②主題を伝える技巧を磨きたい、ということです。

まずは①についてです。日常的で常識的な見方に即した句は、軽いのではないか。もちろん、日常的な感覚は大切です。芭蕉の「薦を着て」の句も、新春のにぎわいの中に見かけた乞食の姿が発想の源にあるわけです。ふつうだったら、はなやかな雑踏の中で薦をかぶっている人を見たら、かわいそうだ、とかああはなりたくない、というふうな感想を抱き、そのような感情を滲ませて詠むでしょう。でも、この句では「います」と、ふつうとは違う見方をしている。題材や言葉づかいは、日常から発していても、物の見方は、日常とは違う。つまり、俳句を作る主体は、生活者であることを、どこかで切り捨てなくてはならない。日常を成り立たせている常識を疑い、問いかけ、ときに否定する。今の言葉でいうところの、〝批評精神〟ですよね。芭蕉はそのことを風狂といったのではないか。日常を、日常的な視点から詠んでも、あまり面白い俳句にはならない。ある偏った物の見方、変わった物の見方をすることで、日常の中にも、さまざまな主題を拾うことができるのだということです。自分の中の、偏りやこだわりを大事にしたい。
題材が日常的であることや、言葉遣いが平明であることを軽いといっているのではなく、物の見方の軽さ、〝批評精神〟なき句を、「軽い句」と定義したい。
芭蕉はよく旅をしていますが、それも、旅人となり、生活者であることを切り捨てるためでしょう。生活者とは、この世で生きていく常識を身につけ、常識の範囲内で生き、生活を安定させることを第一に考える人、と定義しておきます。
旅の中で作られた句が、生活者の視点を切り捨てていることは、推敲の過程を見ればわかります。『おくのほそ道』の旅で、黒羽の光明寺の行者堂を訪れたときには、役行者の下駄を拝観して、「夏山や首途を拝む高あしだ」と詠んだ句を、
夏山に足駄を拝む首途かな
と直しているのは、見事な主題の発見だと思います。前者では、「高あしだ」の珍しさに主眼があるのですよね。直したあとだと、旅立っていくことそのものに主眼が移っている。前者は軽い句ですが、後者は重みが加わった、ということがいえるのではないか。旅で俳句を詠むとき、ついつい、物珍しさに目を奪われてしまうのは、まだ日常の意識が抜けていないから。あるいは、須賀川で等窮宅の庭に庵を結んでいた脱俗の僧・可伸を訪ねた際は、「隠家やめにたたぬ花を軒の栗」という句を作り、あとで、
世の人の見つけぬ花や軒の栗
と推敲しています。前者は、栗の花を、芭蕉もまだ見つけていません。隠れ家の主は見つけているのですが、芭蕉は見つけていない。でも、推敲したら、芭蕉も主の側にいってしまった。目立たない栗の花の良さを知る人になってしまった。「世の人」であることを、やめてしまっているわけです。
芭蕉が最後に行きついたのは軽みの境地だということで、現代俳人もそこに到るべきなんだ、とよくいわれますが、果たして芭蕉の最高の作はそこにあったのでしょうか。「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」という芭蕉晩年の句は、旅への妄執ということが主題になっている。軽みといいながら、芭蕉は最後まで、軽くなりきれていない。日常を日常のままに終わらせないのが芭蕉という俳人でした。
主題だ、重い句だといっても、俳句は音数がとにかく短いですから、人生だの愛だのといった観念的な命題を扱うのは難しいという意見は、古くからあります。俳句ではむしろレトリックを重視する立場ですね。何を詠うか、よりも、どう詠うか、が問題になるということです。思想対レトリックの構図で言えば、正岡子規と夏目漱石が若き頃に交わした書簡の言葉が、私にはとても響きます。
故に小生の考にては文壇に立て赤幟を万世に翻さんと欲せば首として思想を涵養せざるべからず。思想中に熟し腹に満ちたる上は直に筆を揮つて、その思ふ所を叙し沛然驟雨の如く勃然大河の海に瀉ぐの勢なかるべからず。文字の美、章句の法などは次の次のその次に考ふべき事にてIdea itself の価値を増減スルほどの事は無之やうに被存候。
明治二十二年十二月三十一日付正岡常規宛夏目金之助書簡より
明治二十二年ですから、彼らが二十二歳のときですね。子規が文章を書き散らしてばかりで、アウトプットばかりでインプットが足りない、だからもっと読書をして思想を持つように友人として助言している文脈であり、詩歌について述べたものではないのだけれど、思想を第一、レトリックを第二と強調しているのは、重要だと思います。なぜなら、夏目漱石は文章はもちろんのこと、やはりその俳句もかなり観念的だからです。
菫程な小さき人に生れたし    漱石
無人島の天子となれば涼しかろ
といった句は、彼のいうところのイデアの表明でもあるでしょう。欲得を離れた、自然や天命に従う生き方をしたいということ。後年、「即天去私」の四文字で示される思想です。漱石は、俳句でイデアを詠むことに何の問題もないということを証明してみせたわけです。手紙のやりとりのなかで、漱石の発言に、子規はまともに反論できていません。子規に限らず、近代俳句は長らく、漱石の問いかけ、つまり思想という問題から目を背けて来たように思います。
高浜虚子は「季題」という言葉で、俳句の主題を、季節の話題に限定してしまった。季語を深く詠みこんで、人生や真理の話題に至るということも、もちろんありうるでしょう。虚子の「去年今年貫く棒のごときもの」は、時間は移ろうのだけれど自分の意思だけは曲がらないという、伝統的な無常観に抵抗する思想を詠み込んでいます。ただ、季題中心主義では、表現し得ないものもある。虚子は、俳句に表現できる限界を定めたわけですが、俳句はそれほど狭いものではないのではないか。実際のところ、現代の私たちは、季語を主題にして句を作っているでしょうか。現実には、季語の力を借りて、といいますか、言い方は悪いのですが季語を利用して、だしにして自分の言いたいことを言っているのに近いのではないか。たとえば、
妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る    中村草田男
原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫歩む   金子兜太
これらの句の場合、わかりやすく「妻抱かな」「原爆許すまじ」に主題があるといっていいでしょう。「春昼」や「蟹」という季語は、主役というよりも脇役です。こうした句は、季題中心主義によっては辿りつけない主題を持っています。

ここで、②主題を伝える技術を磨きたい、という話題に入っていきます。この技術というのは、主題を多義的に伝える技術といいかえられます。多義的、曖昧性とか、ポリフォニック(多声的)とか、さまざまな言い方を考えているところなのですが、要するに主題がはっきり伝わり過ぎないよう、ごまかすというか、まぎらわせる技巧がいる。たとえば兜太の句にはどこか「原爆許すまじ」の深刻さを茶化すような声もひそんでいる。「蟹」が出てくるところがそうでしょう。蟹がはさみをふりあげているのって、どこか滑稽ですよね。「蟹かつかつ」と妙にリズミカルなのも楽しい。原爆を取り上げた句に、滑稽味があるというのは、日常的な倫理からすると許されないことかもしれないけれど。でも、この句は滑稽味もあるから、悲壮感も際立ってくる句なんだと思います。
それから草田男の句も、「妻抱かな」はすごくエロティックなんだけれど、「砂利」を踏んでいるというのが、なんだかおかしい。「春昼の道踏みて帰る」じゃだめですよね。コンクリートの道をまっすぐ帰るというのでは、「妻抱かな」が伝わり過ぎる。「砂利」を出すと、リビドーに駆られてものすごく心は逸ってるんだけれど、砂利に足をとられて進みづらい、ジャリジャリ靴の音が鳴っている、ともすればコケそうになっている、というどこかリビドーに駆られている自分を茶化しているようなところもある。
これらは二つとも、ずいぶんまじめなことをいっているのだけど、どこか句の中には、そんなまじめさを茶化すような声も聞こえてくる。主題を示しつつ、主題を薄める、濁らすという処理が必要になってくるわけで、これは特に俳句に限ったことではないです。
主題を持つことは大切なんだけど、主観をぼかすことも大切だということ。ぼかした方が伝わると言うのかな。異化作用っていいますよね。すごく単純化して言うと、たとえば、竹下しづの女の句で、
短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎
は多義的、多声的ですが、仮に、
短夜や乳ぜり泣く子をひたあやす
などとしてしまうと、独白的になってしまう。短夜の句は、一句の中に、いろんな声がある。「明日も早いのに、いやになっちゃう」「いっそのことうっちゃってやろう」「いや、やっぱり大事な我が子だ」というふうに、漫画でよくある、頭の上で天使と悪魔があれこれ言っているみたいなものですね。主題としては我が子の愛おしさということになるでしょうが、それをぼかしている、わかりにくくしている、ということでしょう。わかりにくくないと、伝わらないという矛盾を、詩人は突破しなくてはいけないわけです。
さきほど、「軽み」ということはあまり芭蕉にとって重要ではなかったのではないか、最後まで芭蕉は軽くなりきれなかったではないか、というような話をしましたが、軽みの対義語は「重み」ではなくて、「重くれ」なんですね。否定的な意味がかなりこめられた言葉です。「重くれ」というのは、モノローグ的で、一方的な俳句が「重くれ」なのではないか。なかなか芭蕉の言葉を追っても「重くれ」の具体的な作例は見えてこないのですが、知識偏重で、作者が出張り過ぎている句を「重くれ」といっているようです。私は、『去来抄』にある、
時鳥帆裏になるや夕まぐれ  先放
について去来が、はじめは下五が「明石潟」であったのを、「夕まぐれ」に直したというエピソードに注目しています。去来は「時鳥帆裏になるや」でじゅうぶん景色としても情感としても面白いから時鳥の名所である「明石潟」をつけるのは「心のねばり」であるといっている。この「心のねばり」が「重くれ」に近いもので、読者の多様な解釈を妨げてしまうものだと理解しています。「明石潟」だと、「ふた声ときかずはいでじ郭公いく夜あかしのとまりなりとも 藤原公通」(『新古今和歌集』)にもあるような、時鳥の名所に来た喜びという、解釈が一つに定まってしまう。作者が意図する解釈ですよね。「夕まぐれ」だとぼかした感じになって、どこの港でもよくなる。
つまり、「重くれ」と「重み」は違うということ。「重くれ」は困るけれど、「重み」と「軽み」は矛盾しない。「重み」を備えた「軽み」もあるということです。結局のところ、これが理想なのでしょうね。作者の主張がきちんとこめられていながら、多様な解釈も許すという。現代俳人の例では、「来ることの嬉しき燕きたりけり 石田郷子」「夏の闇鶴を抱へてゆくごとく 長谷川櫂」「空へゆく階段のなし稲の花 田中裕明」などは、私の目指したい、重みのある句です。

最後に恥ずかしながら、私自身も主題を大事に作ってみた句をいくつか紹介してみます。
僕はちょっとおかしな家に育ちまして、父が暴力的というか、今でいうドメスティックバイオレンスが平気でまかりとおる家でしたので、「家庭」というのは本当に安らげるものなのか、家庭が束縛になることもあるのではないか、というようなことを、俳句を通して考えてみたいという思いがあります。
卓に葡萄「まるで家庭じゃないみたい」   克弘
聖家族万引き家族運動会
あとは、現代日本の大勢の人間が属している企業文化と、隔たったところで生きているという負い目と自負というものも、考えていきたいテーマです。
ビルディングごとに組織や日の盛      克弘
通帳と桜貝あり抽斗に
こんな感じです。もちろん、これらは自信作というわけではなく、いろいろ挑戦している途中といったところです。まだまだ長い俳句人生ですから、失敗も重ねつつ、生涯に二、三句くらい、主題を持った、重みのある句ができればいいと思っています。

きごさい+「和菓子で楽しむ秋」レポート

季語と歳時記 投稿日:2019年9月30日 作成者: dvx223272019年10月1日

栗菓子いろいろ
画像提供:株式会社虎屋

9月22日、「第19回きごさい+」が神奈川近代文学館で開催された。講師は、株式会社虎屋 菓子資料室、虎屋文庫主席研究員の中山圭子さん。中山さんの講座は今年で四年目。最初の年は一月で梅の和菓子、その翌年は桜の和菓子、昨年は涼を呼ぶ夏の和菓子、そして今回は「和菓子で楽しむ秋」をテーマにお話しいただいた。

◆日本人は栗が大好き
 栗は縄文時代から食べられていたようで、三内丸山遺跡にもその痕跡が残っている。甘くてアクが少なくて腹持ちがよくて、昔の人も栗が生るのを心待ちにしたことだろう。それは現代の私たちも同じ。店頭に栗や栗のお菓子が出るとそわそわする。虎屋の栗の生菓子は必ず新栗を使うので、その年の天候によって違う栗の出来や入荷状況を見極め、販売開始日を決めるそうだ。
 受付には栗蒸羊羹、栗鹿の子、栗粉餅と、虎屋謹製の菓子が三種並び、参加者は楽しそうに迷いながら一つを選び席に着く。私は栗粉餅をいただいた。栗粉餅の名は虎屋の元禄時代の史料にあり、その頃は餅に栗の粉をまぶしたような素朴なものだったと考えられるが、だんだん手の込んだ菓子へと変化していったという。さて、目の前の栗粉餅、断面は求肥とこし餡と栗のそぼろの見事な三層、目も楽しみながら美味しくいただいた。
栗鹿の子はつやつやと秋の日の輝き。栗蒸羊羹は切り口の模様がみんな違うのが楽しい。講座の後の句会では、羊羹を闇と見立てたり、栗を月のかけら、光、木もれ日と表現したり、栗羊羹の句がたくさん出た。

◆季節の移ろいの表現
 夏の菓子「青梨」が、八月後半には「黒梨」で登場。形は同じだが、色合いで秋の気配を表現しているという。最初は黒い梨?とびっくりしたが、「黒梨」の画像を見ていると秋めいた感じがするから不思議だ。実物の菓子「黒梨」を見たら、そして味わったらなおさらだろう。上生菓子は半月ごとにラインアップが変るという。菓子と菓銘が季節の移ろいを教えてくれる。そぼろをつけた菓子、きんとん製は、形は同じだが、そぼろの色、配色、配分が少しずつ変っていき、秋の深まりを感じさせてくれる。それぞれの菓銘も詩的で、菓子職人の感性と技量のすばらしさを感じた。

◆行事とモチーフ
 秋の代表的な行事、モチーフと菓銘の資料が配られ、画像とともに秋の和菓子が紹介された。
1.行事(重陽、敬老の日、月見、お彼岸など)
2.植物(菊、桔梗、薄、紅葉、稲穂)
3.果物(柿、栗)
4.動物(雁、稲雀、鹿)
同じモチーフでも、その姿・形・色を具体的にデザインしたものと、イメージを抽象的に表現したものがあるのが面白い。具象性の菓子は、例えば菊の菓子は花びら一枚一枚まで緻密に作られていてそのリアルさ、美しさに驚いた。抽象的な菓子のほうは、菓銘を頼りに、デザインした人の意図を想像するのだが、はっとひらめく菓子もあれば、まったくわからない菓子もある。中山さんの解説を聞いてやっと納得、同時に職人の発想力に感心した。
現在は、抽象的なお菓子の意匠になかなか関心が集まらず、わかりやすい具象性のある菓子の方が人気なのが少しさびしい、と中山さんは語った。

◆見立て、意匠
 様々な文化が花開いた江戸時代は、菓子においても遊び心があふれていたという。今は作られていないいくつかの菓子の絵図がスクリーンに映った。ほとんどが見立て、つまり抽象性の菓子のようだ。何を表現しているのかよくわからなかったが、中山さんの説明で、これは波、ここは千鳥と聞くとそのように見えてくるから不思議だ。和歌、古典を踏まえた菓子も多く、当時は、菓子職人も客も相当な教養、想像力、そして遊び心があったのだろう。見立ての絵解きを愉しみ喜ぶ客がいてこそ、職人も意匠と技術に腕を磨いていったに違いない。
 
◆羊羹
 羊羹の意匠もさまざまで奥深い。「月の眺(nagame])」という羊羹は、月の満ち欠けに想を得た意匠(デザイン)で、日ごと姿を変えてゆく月を一棹の中に表現したという。切るところによって切り口に三日月や弓張り月があらわれるのだろうか。虎屋文庫資料展「虎屋文庫の羊羹・YOKAN」展(11/1~12/10、赤坂虎屋ギャラリー)で展示されるという。ぜひ見に行きたい。また、待望の「羊羹」の本がまもなく出版される。こちらも楽しみ。

中山さんの楽しく親しみやすい語り口にあっという間の一時間だった。専門的なお話もわかりやすく、日本の和菓子文化の豊かさ、日本人の美意識と感性に触れた気がした。そして、何より「お菓子って美味しいだけでなく楽しい。」という、中山さんの思いが、私たちにも伝染?したようだ。(葛西美津子記)

<句会報告>
◆中山圭子選
【☆特選】
羊羹の闇に飛びくる栗小僧       清水今日子
【特選】
羊羹や月のかけらの栗散らし      西川遊歩
笑ふ目のごとき焼印雁渡る       西川遊歩
栗を煮る縄文土器の火焔かな      鈴木伊豆山
切り口は一期一会の栗羊羹       青塚美恵子
黒梨や一人で過す夜の秋        山本桃潤
栗鹿の子宝珠のごとく輝けり      清水今日子
木もれ日を一棹にせり栗羊羹      長谷川櫂
栗羊羹月の光をちりばめて       葛西美津子

◆長谷川櫂選
【☆特選】
亥の子餅かういふものといふでなく   竹下米花
【特選】
暗闇に月さし入るや栗羊羹       飛岡光枝
日本の秋のおごりや栗羊羹       飛岡光枝
栗羊羹月山に月出てゐるか       上村幸三
落雁の秋ほろほろとこぼれけり     趙栄順
着綿のことに心に入む身かな      葛西美津子
美しや栗羊羹の切り口は        山本桃潤
【入選】
風音の一夜明けたり栗拾はん      金澤道子
目も楽し口も楽しや栗粉餅       金澤道子
ひと晩を寝かせて栗の渋皮煮      金澤道子
うれしさの音引き摺つて千歳飴     飛岡光枝
小さき手に月見団子をひとつづつ    飛岡光枝
栗羊羹月の光をちりばめて       葛西美津子
この山の熊よろこばす栗の秋      葛西美津子     
栗の菓子栗みつけたるうれしさよ    趙栄順
大いなる遺愛の湯呑み栗鹿の子     中丸佳音
やれうれし栗きんとんの秋来る     山本孝予
栗鹿の子宝珠のごとく輝けり      清水今日子
初雁や月にかかりし二羽三羽      山本桃潤

「HAIKU+」12月1日は髙柳克弘さん

季語と歳時記 投稿日:2019年9月24日 作成者: dvx223272019年12月3日

「HAIKU+」は、「今何が俳句で問題か」という統一テーマで現在ご活躍中の俳人をお迎えして、お話を聞き、俳句の未来を考える催しです。
第3回「HAIKU+」の講師は俳人の髙柳克弘さん、

12月1日(日)に神奈川近代文学館で開催致します。
演 題:〝軽み〟ならぬ〝重み〟の時代へ
講 師:髙柳克弘(たかやなぎ かつひろ)

〈講師のひと言〉
芭蕉が晩年に辿りついたという〝軽み〟。現代俳人にも少なからぬ影響を与える〝軽み〟ですが、口当たりの良い言葉がもてはやされる現代には〝重み〟こそが意味を持つのではないでしょうか。〝重み〟は主題を持つことで生じると私は考えます。俳句において季語は必ず主題であるべきなのか。俳句で思想や観念を書くことはできないのか。俳句ならではの主題の表現法とは何であるのか。みなさんと一緒に考えてみたいです。

<講師プロフィール>
俳人、俳句結社「鷹」編集長。1980年、静岡県浜松市生まれ。早稲田大学で堀切実のもと芭蕉を研究。俳句実作は藤田湘子に師事。 第19回俳句研究賞受賞。 句集に『未踏』(第1回田中裕明賞)、『寒林』。 評論集に『凛然たる青春』(第22回俳人協会評論新人賞)、『どれがほんと? 万太郎俳句の虚と実』、 『芭蕉の一句』、 『蕉門の一句』ほか。  2017年度、Eテレ「NHK俳句」選者。11月10日から2月16日まで浜松文芸館で「ことごとく未踏 俳人・高柳克弘の世界展」 を開催。

日 時:2019年12月1日(日)14:00?16:15(13:45 開場)
14:00~15:30 講演
15:30~16:15 藤英樹(きごさい編集長)との対談、質疑応答

会 場:神奈川近代文学館 中会議室(横浜市、港の見える丘公園、〒231-0862 横浜市中区山手町110、みなとみらい線「元町・中華街駅」6番出口から徒歩10分)

http://www.kanabun.or.jp/guidance/access/
参加費:2,000円
申し込み:きごさいホームページの申し込み欄から、あるいはきごさい事務局にファクシミリでお申し込みください。

FAX 0256-64-8333

恋の俳句大賞(2019年前期)該当作なし

季語と歳時記 投稿日:2019年8月7日 作成者: dvx223272019年8月8日

恋の俳句大賞、前回同様、今回も該当作がありませんでした。

☆趙栄順 選
【特選】
夕立や新しい恋つれてこい 小島寿々
夏蜜柑香る男に惚れちまう 田村美穂
甘くても恋苦くても恋レモン水 明日也
おはようと目覚めし君と初笑ひ 朴文英
【入選】
かざぐるま君への想い空回り 矢作輝
死ぬほどの恋も二度ほど茄子の花 川辺酸模
好きですと言っては負けねチューリップ 鹿沼湖
帰すべきひとを帰して髪洗ふ 澤田紫
まだ肩に君の重さの朧月 椋本望生
喫茶店ポインセチアと待ち人と 佐々木健一

☆長谷川櫂 選
【特選】
きみとゐて心まぶしき雪野かな 武田百合
鯛焼きや恋人たちに焼き上がり 佐々木健一
麦の穂のごとき言葉をもらふ恋 永守恭子
【入選】
田植ゑて二人見上げる宵の星 川辺酸模
ジャスミンティーくるくる恋は終わらない 小島寿々
失恋の指に線香花火かな 鹿沼湖
わが恋を知るや知らずや落とし文 湯浅菊子
友情となりし恋あり遠花火 永井和子

恋の俳句大賞締め切りました

季語と歳時記 投稿日:2019年8月1日 作成者: dvx223272019年8月1日

たくさんの応募ありがとうございました。応募総数は2060句(前回は983句)でした。
入賞発表までしばらくお待ちください。
今日から2019年後期分を募集いたします。

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今夜はご馳走 二月 寄鍋

二月:寄鍋

 日脚は日に日に伸びているが、寒さは一段と厳しい二月。寒く冷え切った晩には、やはり鍋が一番。水炊き、しゃぶしゃぶとさまざまあるが、魚貝の入る寄鍋は、だしの旨味で湯気の香りまで味わい深い。親は子に、子は老親に、あるいは若者同士、美味しい具材をにぎやかに教え合うおしゃべりも寄鍋の良さ。湯気でくもる窓の外の寒さは遠い。

寄鍋やこの貝旨しと箸で寄せ 越智淳子


  • これまでの「今夜はご馳走」  越智淳子
  • これまでの「今月のお菓子」  越智淳子
  • これまでの「今月の和菓子」 葛西美津子

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きごさい小中学生俳句大会ズーム講評会

コロナ禍の影響で表彰式エベントが開催できないため、ズームによるリモート講評会を開催いたします。パソコン、スマホなどインターネットを利用できる環境が必要になります。接続指導はできませんので、ズームの接続経験があることが条件になります。100回線限定。第10回きごさい小中学生俳句大会の入賞関係者の参加が優先となります。

日時  3月13日(土)午後2時から40分間程度
参加費 無料
講評するひと 小山正見 高田正子 長谷川櫂 山本新 飛岡光枝

参加希望者は下記のフォームからお申し込みください。参加者には3月1日以降にズーム入室のURLをお知らせいたします。

    お名前 (必須)

    電話番号 (必須)

    メールアドレス (必須)

    俳句大会ズーム講評会に参加を希望します。参加をキャンセルします。

    入賞者、学校関係者の参加を優先します。入賞者名、学校名をお書きください。

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    『花のテラスで Ⅱ』
    福島光加
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    『花のテラスで』
    福島光加
    花神社
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    2014年9月刊行


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